ノンちゃんです。
ペルーのマチュピチュ遺跡と言えばほとんどの方は知っていると思います。
そのマチュピチュ遺跡に日本人の方が大きく関わっていたことはご存知ですか?
私も昨夜のテレビ番組で初めて知りました。
マチュピチュ村の初代村長として日本人の写真が飾られていました。
すごく興味があり詳しく調べてみました。
目次
マチュピチュ村を創った日本人
その人の名前は野内与吉さん、
野内与吉さんはマチュピチュ遺跡の麓にある村の為に生涯をささげた方です。
福島県安達郡大玉村の裕福な農家の生まれだそうです。
裕福な家に生まれながらも農家の手伝いに満足できず、
夢をいだき1917年(大正6年)に契約移民としてペルーへ渡ったそうです。
ペルーの農園で働いたが契約内容と現実の状況が大きくちがったため、
1年で農園を辞め、米国やブラジル、ボリビアなどいろんな国を放浪し再びペルー〔1923年
頃)に戻りました。
クスコ県にあるペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ線に勤務し、
会社専用電車の運転や線路拡大工事に携わりました。
1929年にはクスコ~マチュピチュ区間の線路が完成します。
与吉さん、結婚
与吉さんは、線路が完成の前の年に結婚した現地の女性とマチュピチュ村に住むこととなります。
その2年後には長男が生まれるのですが、2歳で他界。
その後、2人の娘と2人の息子に恵まれます。
手先の器用だった与吉さんは、
何もないマチュピチュ村に川から水を引いて畑を作ったり、
水力発電を作り、村に電気をもたらしました。
村を住みやすくするため木を伐採します、その時に温泉が湧いたという証言もあるそうです。
(現在アグアス・カリエンテス村に温泉がある)。
また、村で故障した機械も修理していたという。
創意工夫に富み、労をいとわず、マチュピチュ村のために尽くして皆に喜ばれて
いたようです。
1935年には、この村で初の本格的木造建築である「ホテル・ノウチ」を建てます。
建物の一部には線路のレールが利用され、床は当時では高価だった木材を用い、3階建てで21
部屋を持つ立派なホテルだったそうです。
与吉は自分のホテルを村のために提供し、
1階は村の郵便局や交番として無償で貸していたということです。
後には2階も村長室や裁判所として使用されていたようです。
「ホテル・ノウチ」が村の中心となってマチュピチュ村は発展していったそうです。
与吉さんはスペイン語、先住民の言語であるケチュア語、英語も喋り、現地のガイドもしてい
たようです。
村人に信頼されていた与吉は人望を集め、1939~1941年にはマチュピチュ村の最高責任者で
ある行政官を務めたとの事。
マチュピチュ村が正式に村になったのは41年だそうです。
その後、最初の奥さんと別れ与吉さんは再婚し、5人の子供に恵まれたそうです。
1947年にはマチュピチュ村の川が氾濫し、村は大きな土砂災害に見舞わます。
そこで与吉さんは住人達とともに、地方政府あてに緊急支援を依頼します。
地方政府からの命令で、復興のために1948年に与吉さんはマチュピチュ村村長に
任命されます。
息子への引継ぎ
1950年頃、与吉さんはペルー国鉄クスコ-サンタ・アナ鉄道で再度働き定年まで勤めたのち、
この仕事を息子の一人ノウチ・セサル・モラレスさんに引継ぎます。
マチュピチュ遺跡を世界遺産に申請しましたが、
はたせないまま1969年与吉さんは亡くなりましたが、
息子さんが引き継ぎ世界遺産に登録されたそうです。
日本にいる家族が与吉さんの消息を知ることに
1958年に三笠宮殿下がペルーを訪れ、マチュピチュ遺跡を見学した際に、
与吉さんの長女オルガ野内さんが三笠宮殿下に花束を贈呈した時の新聞記事を見て、
日本いる家族がはじめて与吉さんの消息を知ったそうです。
家族は日本大使館を通じて与吉さんと連絡をとることができました。
1968年与吉さんは故郷に52年ぶりに帰郷することができました。
与吉さんの両親はすでに他界していたようです。
兄弟や親戚が与吉さんを出迎えました。
滞在中は、マチュピチュ遺跡に関する講演会を開くなど、
村人にペルーの魅力を伝えていたようである。
その後クスコに戻り2ヵ月後に(1969年8月29日)に息を引き取ります。
のちに次男のホセさんは1981年から1983年までマチュピチュ村村長を勤めることとなる。
マチュピチュ村と鉄道の歴史と日本人
マチュピチュ村で尽力した日本人のことはまだあまり知られていない。
この事実を一人でも多くの方に知っていただきたいと、孫の一人である日系三世の野内
セサル良郎さんは活動を続けているそうです。